間違っている英語なんてない。
日本人(に限らずかもだけど)は、どうも正解を求めたがる傾向にあるようだ。
受験勉強の影響なのか、日本人の個性なのか理由は定かではないけれども、〇×を付けたがる。
例えば、この本の表紙に書いてある例文。
× My job is an English teacher.
〇 I teach English.
下の例文の方がいいとのこと。
本文を読んでいないので、著者がどの程度下の文章を勧めているのか不明だけど、表紙を見る限り、下の例文を使いましょうと言っているように思える。
上の例文でも全然いいと思うんだけど。。
会話の流れ的に、
What do you do for a living?とかWhat’s your job?(仕事は何ですか?)
と聞かれての答えだと思うんだけど、全然上の例文で通じるでしょ。
素直な人は、上を思いついたけど下の方がいいのかな~なんて思って自信を無くすかもしれない。
仮に、I teach English.の方が答え方として自然だったとしても、上の例文は×ではなく△にすべきだと思う。
単語が違うとか明らかに間違っている英文は×だとしても、会話が成り立つ文を×にしてしまうところが、日本人が英語の習得に時間が掛かる理由の一つかもしれない。
〇の英文を作ることを意識するより、100点にこだわらない英文を量産できるようにしたほうが、結果的に短期間で英会話力は上がっていくと思う。
酔っ払っている時の方が英語が話せる理由。
以前、一度外国人と二人で飲みに行った事があって、その時に体験したことが不思議で、なぜだろうと思っていたのだけれど、その理由が解ったので伝えたいと思う。
不思議な体験というのは、
『酔っているときの方がスラスラと英語が話せた。』
というもの。
普通に考えたら、酔っ払っていたら頭が働かないから、しらふの時に比べて英語が話せなくなると思いますよね?でも、実際は酔ってからのほうが英語がスムーズに口から出てきた。
なぜだろう、眠っていた英語力が酒に刺激されたのかなとか、それとなく考えていたのだけど、理由が解った。
しらふの時に英語を話そうとすると、まず、いろんな日本語とか考えが頭に思い浮かぶ。で、それを英語でできる限り正しく伝えようとして、言葉に詰まる。つまり、思っている事と英語で表現できることのギャップを埋めようとするため、英語が口から出てこない。
でも、酒で酔っていると、脳が働いていないから、いろんなことを考えることができない。(思っている事と英語で表現できることのギャップが縮まる)
なおかつ、デリカシーも欠けているから、反射的に思ったことを口に出してしまう。
だから、英語が話せるようになったような感覚になる。
そういうカラクリ。
ま、スムーズに英会話をするという目的においては、酔っ払う事は効果があるかもしれない。
でもそれは英語力が上がっているという訳ではない。
ただ、何も考えていないだけ。
しらふの時にちゃんとコミュニケーションが取れることこそ実力がついたことの証明になる。
しらふの時でも、あまり考えすぎずに話すってのも、もちろん有効だとは思う。
「わたしの外国語学習法」
以前、
「わたしの外国語学習法」 ロンブ・カトー(米原万里:訳)
という本を読んだ。
いくつか心に掛かる部分があったので、忘備録としてメモしておく。
・外国語習得者(ここでは、自分の興味を満たす為に数ヶ国語を身につけている人のこと)は、一方で言語学の専門家の側から極端な単純化や不正確さゆえに非難され、他方で学習者の側からあまりにも理論的過ぎると詰られるのを、私はあえて潔しとします。
・我々ハンガリー人にとっては、<W>と<V>の発音の区別が非常に困難です。そういう場合は<wo-vo><wa-va><we-ve><wi-vi>等々の音節を無限に繰り返すことです。
・外国語で表現することを写真撮影に喩えてみましょう。薔薇の花があるとします。そのとき、私たちはレンズを薔薇の花びら一枚一枚に近づけるのではなく、ファインダーにちょうど花の姿全体が納まるように一定の距離をおいて撮影に取り掛かるでしょう。
・デヨージョ・コストラーニは、好んで言ったものです「外国語で語るということは、常に妥協することだ」と。
・誤った見解に次のもっともらしいものがあります。「正しい発音を身につけるには、この正しい発音を何度も聞けば十分だ」
・外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一の物。
チャンスについて。
「チャンスの神様は前髪しかない。」
そんな、イメージのしづらい言葉が、チャンスの言葉としては有名。
チャンスだと思ったらすぐに掴まえに行かないと、
そのチャンスをものにできないよって意味(でいいのかな)。
個人的には、この意見にはあんまり賛同できない。
世の中にチャンスは溢れている。
チャンスをものに出来るかどうかは、
チャンスを見極める嗅覚とか、
チャンスにすぐ手を出す俊敏さ
ではなく、
チャンスをものに出来るだけの準備がしてあるか
何でもないことを、チャンスに変えられるか
だと思う。
チャンスがあっても、それをものにできるだけの力がなければ、
いくらチャンスに対する嗅覚が強くて、行動力があっても
結局それをものにすることはできない。
チャンスが沢山あれば、いつかはラッキーなことがあるかも
知れないけど、それを待つのはチャンスの無駄遣い。
チャンスとラッキーは違う。
ラッキーは贈り物だけど、チャンスは権利。
そして、チャンスをものに出来るかどうかは、
ラッキーかどうかではなく、準備がしてあるかどうか。
逆に、準備がしっかりできていれば、なんでもないようなことでも、
チャンスにすることができる。
語学は難しいんじゃない、面倒くさいだけ。
最近、というか以前から思うことがあって。
語学を身につけるのって、難しいんじゃなくて単に面倒くさいだけなんじゃないかと。
よく言われることだけど、ネイティブは当然その国の言葉が話せるし、それだって別に勉強したらか話せるようになった訳じゃない。多少は学校で勉強するけど、ほとんどは生活の中で触れてきたから話せるようになっただけ。才能も努力も関係ない。
僕ら外国人がそれらの言語を話せるようになるには、勉強する必要があるけど、頭をひねって苦労しなければ理解できないようなものじゃない。
微分積分と100桁の足し算、どっちが難しいか。
多くの人が微分積分と答えると思う。
100桁の足し算は面倒くさいけど難しくは無い。
地道にやれば、いつかは答えが出る。
外国語の習得ってそれに近い。
文法って難しいというより、面倒くさい。
色々な理屈の上にそのルールが成り立っている訳じゃなく、これはこういうものだから、こういう決まりだからそう覚えてねっていうのが沢山あるだけ。
深入りすれば理屈はあるのだろうけど、理屈を覚えたところで期待するほど語学力は上がらない。日本語だって、なぜこういう仕組みなのか文法を説明しろと言われても、だってそういうものだからとしか答えられない。
そーいうもんなんだと覚えていろんな文章に触れていくうちに、それが当たり前になっていく。
そんな感じ。
基本的な文法のルールを覚えて、単語を覚えて、言い回しを覚える。
語学の勉強って、これだけ。
リスニングもスピーキングも繰り返しがものをいう世界。
公文式みたいに、ひたすら膨大な量の足し算をしていたら、いつの間にか暗算できるようになりましたっていうのと同じ。
そこには、掛け算も割り算も出てこない。
ただ面倒くさいだけ。
でも、身に付くにつれて面白くなっていく。
ウサギの足は一見、カメの足に見える。
簡単に外国語が話せるようになりたい。
みんなそう思っている。
僕もそう思っている。
「一番効率的で、一番短期間で、ぺらぺらになれる」
そんな方法を求めている。
そして、勉強に手をつけるも効果を実感できないと、何か他にいい方法があるんじゃないかと考え出し、今やっている勉強を放り投げてしまう。
結局、何ヶ月、何年経っても大して話せるようになっていない。
これって、あるかどうかも分からないウサギの足を探し求めているような状態。
ウサギの足を探している間に、カメの足で歩いてきた人の中には話せるようになる人も出てくる。
別に、カメになることが正しいとは思わない。
地道にやることが全て正しいという訳ではない。
辞書を最初から最後まで暗記するのが正しいとは思えない。
誰だってこの方法が間違っているとは分かる。
言いたいのは、
一見、魅力的に見えない方法でも、実はそれこそ効果的な方法かもしれない
ということ。
正しい方法で勉強すれば、どんな言語も半年くらい勉強すればそれなりには話せるようになると思う。
でも、勉強を始める前にはそれがカメの足に見えるから、その方法で勉強しようと思わない。
6ヶ月で話せるようになれば、十分ウサギの足なのに。
ある程度その方法で勉強すれば、それがカメの足の形をしたウサギの足だって気づくのに。
運良くその方法で勉強し始めても、それがウサギの足だと気づく前に放り投げてしまう。
そして、存在するかどうかも分からないウサギの足を求めてしまう。
ウサギの足の形をしたカメの足に心惹かれたりしてしまう。
語学の勉強方法に限らず、世の中のいろいろな物がこれと同じような状態なんじゃないかと思う。
効率(短期間での成果)を求めるがあまり、本当に効率的な物を見ることができなくなっている。
ウサギの足の形をしたウサギの足を探すのも悪くないが、カメの足の形をしたウサギの足を見抜けるようになりたい。