「外国語上達法」
以前、外国語上達法(千野栄一著:岩波新書)という本を読んだ。
別に、外国語上達法が知りたかった訳ではなく、僕の外国語上達法と比べてみたいという思いから。
読んでみて思ったのだが、具体的な勉強方法はこの本にはあまり書いていなかったが、根本となる考え方は結構かぶっていた。
・自分に必要な内容を必要な量だけ勉強すれば良い。
それと、
・・・
あれ、そんだけだったかな。忘れた。
外国語上達には関係ないが、気に入った文章があったのでメモ代わりに載せておく。
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スチュワーデスの英語能力が高いに越したことはない。
(中略:業務に必要な英語が話せれば十分だという内容)
お客様とシェークスピアのソネットを論ずる必要はない。
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‘お客様とシェークスピアのソネットを論ずる必要はない。’
例えがおしゃれですね。
他にも
‘この人たちは英語でエリオットを読み、フランス語でサルトルを論じ、ドイツ語でトーマス・マンを楽しむという人たちではない。’
良くわかんないけど、これもおしゃれ。
「苦労は買ってでもしろ」
という言葉がありますが、 果たして本当でしょうか。
おそらく、若いうちに苦労しておいたほうが、後々楽だからという事だと思うんですが、わざわざ買ってでもするほど苦労って大事なのか。
たくさん苦労して、将来に備えるほど人生って長くないと思う。
てか、‘苦労’そのものには価値はそんなにない。
苦労して得られた知識、経験なり考え方なりが大事なわけであって。
他にもいろいろとこの言葉に対しては、言いたいことがあるんですが、長くなるので止めときます。
そもそもなんでこんなことを言い出したのかというと、
‘人生を楽しむ事に罪の意識を感じてしまう’
人って意外と多いんじゃないかと思ったから。
おそらく無意識に。
特に日本人は。
僕にもあるんですが、人生の楽しさって、ツライ生活の中にたまに訪れるオアシスのようなもので、だからこそ輝いて見えるし、楽しいんだっていう感覚。
だから、常に楽しいなんて状態はありえないし、まずは厳しい現実に耐えなければいけないっていうのが前提にある。
人生もっと楽しみたいと思っていても、
苦労が当たり前
ツライのが当たり前
と思っているから、いざ人生を楽しめる環境が与えられたり、人生を楽しめる可能性が十分にあっても、飛び込めない。
結局、いろいろと理由をつけて、ツライ方を選択してしまう。
なぜなら、
そっちの方が安心できるから。
ツライ思いをしながら一生懸命仕事をしたら、みんな認めてくれるし褒めてくれるし自分にも満足感がある。
でも、何から何まで心から楽しんでやったら、なんか申し訳ないというか、そもそも、心から楽しめない。
どこかでツライ事がある方が安心できる。
何なんでしょう、この残念な感じ。
人生、楽しむためにあると皆思っているのに、楽しみ続けることには抵抗がある。
365日ツライ毎日を送っている自分を褒めることはできるけど、365日面白おかしい毎日を送っている自分は、なんかイケナイ奴だと思ってしまう。
悲しい性(さが)。
ちょっと話が散漫になってきましたが、結局、言いたいのは、
何か目標があっても、過程を含め、人生って楽しんで良いもの。
ツライ思いを自ら求めていく必要はない。
楽しさを追求するその過程に、どうしても削ぎ落とせなかったツライ事がある。
その程度でいい。
人生、常に本番。
苦労している期間は準備期間ではない。
楽しめる方法を追求していきたい。
大人が楽しめない理由。
大人になると、子供の頃に比べて、世界に興味がなくなってくる事が多い。
何を見ても、何をやっても、そんなに楽しくないというか。
その理由について、ひとつの視点を考えた。
それは、
興味の対象が、‘世界’ではなく‘自分’になる
ことが理由ではないかと。
子供のころは、自分という存在をそこまで意識しないので(特に赤ちゃんとか)、見る物全てに興味がわく。
でも、大人になるにつれて、自分のフィルターを通して世界を見るようになる。
それは、今までの経験とか自分が接してきた物事が無意識にフィルターになっていたり、自分と世界(外界)との距離感ばかり気にしたり。
そして、そのフィルターのきめが細かすぎると、楽しいと思うものが少なくなる。
よく、天才は子供っぽい人が多いと言われる。
それは、興味の対象が自分以上に世界に向いているということ。
だから、アインシュタインはあんな髪型。
あれは、見た目に興味がないんじゃなくて、自分に興味がない。
自分に興味がないほうが、人生楽しめるかもしれない。
自分を見つめたところで、自分の中にあるものなんて限られている訳だから、面白さは続かない。
自分の枠を決めてしまい、自分の枠の中に入るものにしか興味がわかない。
枠を取っ払ったら、それはそれで大変だと思うけど、少しフィルターの目を荒く大きくしてみるのも子供化、つまり世界を楽しむための第一歩かと思う。
チャンスが来る単純な仕組み。
以前テレビで見た、中田と本田の対談での中田の言葉。
「結果(ゴール)を出せば、パスが集まってくる。」
当たり前のことだけど、考えさせられます。
人生にも当てはまる。
結果(実績)を残せば、パス(チャンス)が集まってくる。
逆に言えば、何も実績がない状態でただ立っていても、チャンスは来ない。
冷めた見方をすれば、サッカーでパスをくれた人は、パスを渡すことが目的なのではなく、パスを渡した選手がゴールを決めることが目的。
人生も同じで、チャンスをくれた人たちは、何かしらの結果を求めて、または目的があって、チャンスをくれている。
良いパス、悪いパスがあるように、全てのチャンス(機会)を相手にしたり、結果を残す必要はないけど、自分が決めたい、決めるべきチャンスでは結果を残したい。
別に、うまい話が飛び込んでくるとか、ビックプロジェクトの担当を任されるとか、そういうんだけが、チャンスじゃなくて、例えば、商売で言えば、お客さん自体がチャンス。
お客さんの気持ちを掴む商品やサービスを提供することができれば、リピーターになってくれるかもしれない。
人は自分が一生懸命働いて稼いだお金を何に使うか考えていて、自分が望む結果を出してくれそうな商品やサービスにお金を使う。
つまり、そのお金がサッカーでいうところのパス。
そのパスに見合うだけの、またはそれ以上の結果(満足)をお客さんに感じてもらえるかどうか。
それが大事。
お金をもらった時点が結果ではない。
お金はパス。
ゴールではない。
そんなチャンスを得るためにも、まずは何か目に見えるものというか、他人が判断できるような形で、実績を表現をする必要がある。
恋愛でいえば、おしゃれになるとかトークが面白くなるとか、それも十分に実績になる。
その実績が周りから評価されれば、飲み会の誘いも増える。
チャンスってそういうこと。
というか、
そういうことなのかな??
聞き流す系の教材
「赤ちゃんが言葉を覚えるのと同じ感覚で、外国語を身につける」
とか
「聞き流すだけで、いつの間にか自然に口から英語が飛び出してくる」
とか
そういう教材の広告をネットでよく見かけますが、
その方法が良いか悪いかは別として、
正しいか間違っているかも別として、
単純に思うことがあったので、一言。
「その方法で話せるようになるかも知れないけど、
少なくとも数年は掛かるんじゃない?」
僕には姉がいて、甥とか姪がいるんですが、
彼らがそれなりに会話ができるようになったのって、
少なくとも3歳になってから。
つまり、毎日、日本語に触れていて、3年くらいたって、
やっとそれなりにコミュニケーションが取れるようになる。
聞き流すだけとか、文法を学ばないとか、楽かも知れないけど、
話せるようになるまで、めっちゃ時間掛かると思われる。
時間対効果が悪すぎる。
自信と柔軟にまつわるひとつの解釈
自信がある人ほど、他人の話を聞ける。
自分で考え行動することによって今結果を出しているし、
これからもある程度の結果が出せるという自信がある人は、人の話を聞ける。
吸収できる物はどんどん吸収しようと素直に思える。
逆に、自分に自信がなく、プライドだけが高い人は人の話を聞くよりも、
自分の考えややり方の正しさを証明することに躍起になる。
小さくても過去に成功体験があり、今、成功することが出来ない人は
こうなりやすい。(たぶん)
小さい成功でもいいから、自分が結果を出したいと思える分野で
ある程度定期的に結果を残していかないと、自尊心が傷つき、無駄に意固地になる。