「わたしの外国語学習法」
以前、
「わたしの外国語学習法」 ロンブ・カトー(米原万里:訳)
という本を読んだ。
いくつか心に掛かる部分があったので、忘備録としてメモしておく。
・外国語習得者(ここでは、自分の興味を満たす為に数ヶ国語を身につけている人のこと)は、一方で言語学の専門家の側から極端な単純化や不正確さゆえに非難され、他方で学習者の側からあまりにも理論的過ぎると詰られるのを、私はあえて潔しとします。
・我々ハンガリー人にとっては、<W>と<V>の発音の区別が非常に困難です。そういう場合は<wo-vo><wa-va><we-ve><wi-vi>等々の音節を無限に繰り返すことです。
・外国語で表現することを写真撮影に喩えてみましょう。薔薇の花があるとします。そのとき、私たちはレンズを薔薇の花びら一枚一枚に近づけるのではなく、ファインダーにちょうど花の姿全体が納まるように一定の距離をおいて撮影に取り掛かるでしょう。
・デヨージョ・コストラーニは、好んで言ったものです「外国語で語るということは、常に妥協することだ」と。
・誤った見解に次のもっともらしいものがあります。「正しい発音を身につけるには、この正しい発音を何度も聞けば十分だ」
・外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一の物。
チャンスについて。
「チャンスの神様は前髪しかない。」
そんな、イメージのしづらい言葉が、チャンスの言葉としては有名。
チャンスだと思ったらすぐに掴まえに行かないと、
そのチャンスをものにできないよって意味(でいいのかな)。
個人的には、この意見にはあんまり賛同できない。
世の中にチャンスは溢れている。
チャンスをものに出来るかどうかは、
チャンスを見極める嗅覚とか、
チャンスにすぐ手を出す俊敏さ
ではなく、
チャンスをものに出来るだけの準備がしてあるか
何でもないことを、チャンスに変えられるか
だと思う。
チャンスがあっても、それをものにできるだけの力がなければ、
いくらチャンスに対する嗅覚が強くて、行動力があっても
結局それをものにすることはできない。
チャンスが沢山あれば、いつかはラッキーなことがあるかも
知れないけど、それを待つのはチャンスの無駄遣い。
チャンスとラッキーは違う。
ラッキーは贈り物だけど、チャンスは権利。
そして、チャンスをものに出来るかどうかは、
ラッキーかどうかではなく、準備がしてあるかどうか。
逆に、準備がしっかりできていれば、なんでもないようなことでも、
チャンスにすることができる。
語学は難しいんじゃない、面倒くさいだけ。
最近、というか以前から思うことがあって。
語学を身につけるのって、難しいんじゃなくて単に面倒くさいだけなんじゃないかと。
よく言われることだけど、ネイティブは当然その国の言葉が話せるし、それだって別に勉強したらか話せるようになった訳じゃない。多少は学校で勉強するけど、ほとんどは生活の中で触れてきたから話せるようになっただけ。才能も努力も関係ない。
僕ら外国人がそれらの言語を話せるようになるには、勉強する必要があるけど、頭をひねって苦労しなければ理解できないようなものじゃない。
微分積分と100桁の足し算、どっちが難しいか。
多くの人が微分積分と答えると思う。
100桁の足し算は面倒くさいけど難しくは無い。
地道にやれば、いつかは答えが出る。
外国語の習得ってそれに近い。
文法って難しいというより、面倒くさい。
色々な理屈の上にそのルールが成り立っている訳じゃなく、これはこういうものだから、こういう決まりだからそう覚えてねっていうのが沢山あるだけ。
深入りすれば理屈はあるのだろうけど、理屈を覚えたところで期待するほど語学力は上がらない。日本語だって、なぜこういう仕組みなのか文法を説明しろと言われても、だってそういうものだからとしか答えられない。
そーいうもんなんだと覚えていろんな文章に触れていくうちに、それが当たり前になっていく。
そんな感じ。
基本的な文法のルールを覚えて、単語を覚えて、言い回しを覚える。
語学の勉強って、これだけ。
リスニングもスピーキングも繰り返しがものをいう世界。
公文式みたいに、ひたすら膨大な量の足し算をしていたら、いつの間にか暗算できるようになりましたっていうのと同じ。
そこには、掛け算も割り算も出てこない。
ただ面倒くさいだけ。
でも、身に付くにつれて面白くなっていく。
ウサギの足は一見、カメの足に見える。
簡単に外国語が話せるようになりたい。
みんなそう思っている。
僕もそう思っている。
「一番効率的で、一番短期間で、ぺらぺらになれる」
そんな方法を求めている。
そして、勉強に手をつけるも効果を実感できないと、何か他にいい方法があるんじゃないかと考え出し、今やっている勉強を放り投げてしまう。
結局、何ヶ月、何年経っても大して話せるようになっていない。
これって、あるかどうかも分からないウサギの足を探し求めているような状態。
ウサギの足を探している間に、カメの足で歩いてきた人の中には話せるようになる人も出てくる。
別に、カメになることが正しいとは思わない。
地道にやることが全て正しいという訳ではない。
辞書を最初から最後まで暗記するのが正しいとは思えない。
誰だってこの方法が間違っているとは分かる。
言いたいのは、
一見、魅力的に見えない方法でも、実はそれこそ効果的な方法かもしれない
ということ。
正しい方法で勉強すれば、どんな言語も半年くらい勉強すればそれなりには話せるようになると思う。
でも、勉強を始める前にはそれがカメの足に見えるから、その方法で勉強しようと思わない。
6ヶ月で話せるようになれば、十分ウサギの足なのに。
ある程度その方法で勉強すれば、それがカメの足の形をしたウサギの足だって気づくのに。
運良くその方法で勉強し始めても、それがウサギの足だと気づく前に放り投げてしまう。
そして、存在するかどうかも分からないウサギの足を求めてしまう。
ウサギの足の形をしたカメの足に心惹かれたりしてしまう。
語学の勉強方法に限らず、世の中のいろいろな物がこれと同じような状態なんじゃないかと思う。
効率(短期間での成果)を求めるがあまり、本当に効率的な物を見ることができなくなっている。
ウサギの足の形をしたウサギの足を探すのも悪くないが、カメの足の形をしたウサギの足を見抜けるようになりたい。
ほとんどの努力は報われる。
当たり前のように受け入れている言葉だけど、本当にそうかな。
基本、僕は努力とか一生懸命とか強い正義的な言葉が嫌いなんだけど、実は報われない努力なんてほとんど無いんじゃないかと思い始めている。
それどころか、努力することが一番の近道なんじゃないかとさえ思ってきている。
だって、何かを成し遂げる為には、そこに至るためにステップがあって、それをひとつずつこなして積み上げていくことが結果に繋がる。
努力ってそれを実現させるための一番確実な方法だと思う。
程度の差こそあれ、明らかに間違った努力をしない限り努力は報われる。
プロ野球選手になりたかったから一生懸命努力して練習した、でもなれなかった。
ミュージシャンになりたくてライブも沢山やって、曲も作って努力したけど、なれなかった。
毎日一生懸命勉強したけど、希望大学に受からなかった。
だから、努力は報われるとは限らない。
言いたいことは分かるけど、努力した分、野球は上手くなっているはずだし、自分が良いと思う曲を形に出来た訳だし、勉強した分、多少頭は良くなっている。確かにプロ野球選手やミュージシャンにはなれなかったかも知れないけど、その努力は無駄になっていないと思う。何かの形にはなっている。努力する前と同じということは無い。
プロ野球選手やミュージシャンになるって、結局周りの人間が決めることでそもそも努力量が決めることじゃない。受験も周りと比べられるものであって、自分がどれだけ成長したかで受かる訳ではない。
努力ってあくまで自分のレベル(スキル)を上げるもの。
ミュージシャンになるためにレコード会社にデモテープを持っていって沢山営業すれば、営業力は付くけど、契約してもらえるとは限らない。
とにかく、なんだかんだ理由をつけて、人は努力をしたがらないけど、自分のスキルを伸ばす(レベルを上げる)という目的に関していえば、努力はほぼ報われる。かつ、努力が一番効果的。
当然、気持ち的には努力しているけど、実質全然努力してないとかは駄目。
机の前に10時間座っていたけど、参考書1ページしかやってないとか。
そんな徒然。
勉強するほど、語学の○○さに驚く。
○○に入るもの、それは、
「地味」
です。
語学ってほんっと地味だな~と思う。
勉強するほどってまあ、大してそんな勉強している訳ではないけど、普通の人よりは語学のこと(特に、どうすれば短期間で外国語を身につけることができるかということ)を考えているという自負はある。
で、考えれば考えるほど、というか、考えても考えても、結局同じ結論になる。
「言葉なんて、ただの記憶」
結局、こういう気持ちの時はこの言葉を使う、これを表現するにはこう言う、というのがインプットされているだけ。
普段、話しているときは文法なんてほとんど意識しない。
例えば、「転ぶ」という動詞。
日本語の動詞の変化で言えば、「転んだ」「転ばない」「転びたい」などの形になるが、その都度、‘語尾の「ぶ」を「んだ」とか「ばない」とか「びたい」に変形させる’なんて考えない。
「転んだ」「遊んだ」「寝た」「食べた」
「転ばない」「遊ばない」「寝ない」「食べない」
「転びたい」「遊びたい」「寝たい」「食べたい」
というように、それぞれの単語を活用後の形でそれぞれ覚えている状態。
記憶を組み合わせて文章を作っているだけ。
文法で考えるよりも先に、記憶が答えを持ってくるので、それに従って文章を作るだけ。
だからといって、文法なんて勉強しないでどんどん会話練習をするのが良い、と言いたい訳ではない。
日常で使う全ての文型や全ての単語(活用形含む)を覚えるのは相当な時間が掛かる。子供だって、生まれて数ヶ月で話せるようになった訳ではなく、人としてコミュニケーションが取れるレベルになるのには4年くらいは掛かっている。その言語のシャワーを浴び続けて4年である。ましてや大人と対等に会話ができるレベルになるには、少なくとも10年以上は掛かると思われる。
ひとつの言語を身につけるのに、10年。
長いよ。
そこで、この期間を短くするために登場するのが、文法。
言葉のルールを覚え、それを応用することでレバレッジを効かせる事ができる。
だから、短期間で外国語を身につけたいのであれば、文法の勉強は不可欠。
ちょっと話がそれてきた気がする。
そうそう、語学は地味だって話をしていたんだっけ。
単語にしろ、文法にしろ、結局、それを覚えていなければ使えない。
どんなに分かりやすい方法で文法を理解しても、それを覚えなければ意味がない。
最終的には知識として記憶する必要がある。
語学に限らず、他の学問も同じかもしれないけど。
なんだろう、語学って新しい発見とか感動とかが無さすぎる。
既に存在する単語と文法をひたすら覚える。
それだけ。
映画をみたり、ネイティブと無理やり話してみたり、いろいろ工夫することはできるけど、結局それは何のためにやるのかというと、単語と文型を覚えるため。どんなにたくさん映画を観て、どんなに沢山ネイティブの英語を聞いても、何も覚えなければ、語学力という面で見れば、何もしなかったのと同じ。
語学力を付けたければ、暗記(記憶すること)は避けて通れないし、それが全て。
もちろん、話せるようになったら、楽しみ方は無限に広がると思うのだけど、語学習得そのものはほんとにシンプルで超地味。
よって、勉強もつまらないw
はい、最後は愚痴です。
言葉を実利で守れ。
例えば、インターネットで世界中が繋がり始めた今、徐々に使用する言語の中に英語の割合が増えてくることは避けられないと思う。
特に、PC上での英語比率は年々増えていくと思われる。
そんな中で、誰かが、「日本語を守ろう」と言ったところで、その英語比率は下がることはない気がする。
ロマンだけでは大きな流れには逆らえない。
大きな流れに逆らう、または、その流れさえ生まないようにするには、実利が必要。
ヨーロッパの国々が何百年前の町並みを維持しているのは、プライドやロマンが支えているというよりは、その町並みがあることによって、観光客がくるから。
そういう実利があるから、過去が保たれる。
もちろん、最初は偉い人たちのプライドやロマンが自由な建築を禁止したという面もあるのだろうけど、それが結果として実利を生んだからこそ継続されている。
日本語を話すこと、日本語を残すことに実利がなくなれば、日本は意外とあっさり日本語を捨ててしまうかもしれない。
もちろん、今、既に生まれている人たちがその決断をすることはない(というかできない)と思うけど、100年後は本当に分からない。
ネットでの英語のやり取りが日常生活に徐々に浸透してきたら、それで育った子供はそれが当たり前になるし、その子供の子供はもっと当たり前になる。
今、僕らが日本語を話しているのも、友達や家族、そのほかの日本人と話す時に日本語で話すのが一番楽だし、自然だし、メリットがある、つまり実利があるからこそ使っている訳で、別に日本語を愛しているからという理由が一番で使っている訳ではない。
日本語じゃない言葉を使ったほうが楽に楽しく生きられるなら、そっちを使うだろう。
そんなことを、↓の動画を観ながら考えた。
って、この動画のメインテーマがこれって訳じゃないけど。
--英語公用語 ひろゆき 鳥飼玖美子 --
10:00頃から1分間くらい、ひろゆきが持論を展開するんだけど、その後、鳥飼さんがバッサリ否定するところが一番面白い。